Edwards Chronology
エドワーズ略年表
生涯の出来事 | 執筆や出版 | 時代と周辺 | |
1675 | フィリップ王戦争(-76) | ||
1688 | 英国「名誉革命」 | ||
1701 | イェール大学創立(「見聞録 7 」) | ||
1702 | アン女王戦争 (-13) | ||
1703 | 10月5日コネチカット州イースト・ウィンザーで父の牧師館に生まれる(「見聞録 5 」) | ||
1706 | ベンジャミン・フランクリン生まれる | ||
1710 | セアラ・ピアポント生まれる | ||
1716 | イェール大学入学(13歳少し前)(「見聞録 8 」) | ||
1719 | 「昆虫について」(「見聞録 6 」) | ||
1720 | 学部を首席で卒業 | ||
1721 | 回心体験 | 「原子について」「存在について」などの自然哲学論考を執筆開始 | |
1722 | 大学院修了、ニューヨークの長老派教会へ | 「研究ノート」「入手希望図書録」を執筆開始 | |
1723 | ニューヨークからイーストウィンザーへ戻る | 「心について」を執筆開始 | |
1724 | イェールで講師をつとめる | 「聖書注解ノート」を執筆開始 | |
1726 | 母方の祖父ストダードの牧するノーサンプトン教会に赴任 | ||
1727 | 受按、セアラ・ピアポントと結婚(「見聞録 11 」) | 10月29日地震 | |
1729 | ストダード没、主任牧師となる(「見聞録 10 」) | ||
1731 | ボストン講演「贖いの業において栄化される神」 | ||
1734 | ノーサンプトン信仰復興 (-35)(「見聞録 12 」) | 「信仰義認論」 「神的で超自然的な光」 |
ブレック事件 (-35)(「見聞録 14 」) |
1737 | 『誠実な報告』 | ||
1738 | 『愛徳とその果実』 | ||
1739 | 「贖いの業の歴史」 | ||
1740 | 「大覚醒」(-41)(「見聞録 13 」) | ホイットフィールド来米 | |
1741 | 7月8日エンフィールド説教 | ||
1742 | セアラの神秘体験 | 『神の霊の弁別的な徴』 | |
1743 | 『信仰復興に関する若干の考察』 | ||
1744 | 「悪書」事件(「見聞録 16 」) | ジョージ王戦争(-48) | |
1746 | 『宗教的情感論』 | ニュージャージー(プリンストン)大学創立 | |
1747 | ブレイナードとの交流(「見聞録 15 」) | 『謙虚な試み』 | |
1749 | 『ブレイナードの生涯』 | ||
1750 | 陪餐資格論争の末、教会を解任される(「見聞録 17 」) | ||
1751 | ストックブリッジの先住民村落に赴任(「見聞録 18 」) | ||
1752 | 英国でついにグレゴリオ暦が採用される | ||
1754 | 『自由意思論』 | フレンチ・インディアン戦争始まる(-63) | |
1755 | 「創造の目的」「真の徳」草稿 | リスボン大地震 | |
1757 | ニュージャージー(現プリンストン)大学第3代学長に選任される(「見聞録 19 」) | 9月24日娘婿で第2代学長のエアロン・バー没 | |
1758 | 1月16日プリンストン着任、2月23日種痘、3月22日没、大学の「学長墓地区画」に葬られる | 『原罪論』 | 1月27日父ティモシー没、10月2日妻セアラ没 |
1776 | アメリカ独立革命 |