以上紹介した二つのリヴァイヴァルには、ある共通の背景がある。それは、「アルミニウス主義」と呼ばれるところのニューイングランド特有の自由主義神学思潮である。1734年の「信仰義認論」の講演は、エドワーズ自身の言葉によれば、「アルミニウス主義についてこの地方で大きな騒乱のあったとき」であるし、40年代はそれまで抑えられていたアルミニウス主義が、教会ばかりではなく町の政治にも公然と影響力を奮い始めたときであった。エドワーズは神学上の論争としても、また個人的な関わりにおいても、深くアルミニウス主義の問題に巻き込まれてゆく。

ところで、ニューイングランドのピューリタン神学でしばしば言及されるこの「アルミニウス主義」とは、いったい何のことか。それが実際にどのようなものであったのかを内容的に特定することは、実はさほど簡単ではない。「アルミニウス」主義とはいっても、すでにこの時代にはその名が由来するところのヤコブ・アルミニウスとも、またその支持者たち(レモンストラント)とも直接の系譜的・思想的な連続性を失っていた。そもそも人々がみずから「アルミニウス主義」を標榜することは稀で、多くの場合それは他から向けられる非難の冠名であった。それゆえ、この名によって呼ばれる人々の神学的主張はさまざまで、おそらく彼ら相互の間でもその意味について見解の一致を見るのは困難だったであろう。ある研究者はこれを「人間の自己充足信仰の独特なアメリカ的変種」という表現で総括したし、別の表現によれば、「急激に上方修正された人間本性の肯定的評価」と「一種の常識的な道徳主義」がないまぜになったもの、とも説明されるし、さらに「業による救いの巧妙な一表現形態」とも「人間の自信が増大しつつある時代の雰囲気」とも性格づけられる。「アルミニウス主義」は、ニューイングランドにおいては、カルヴァン主義の神中心的教義に傷つけられた人間の自尊心が、道徳主義的な不満や抗議を投げ返す時の、きわめて大雑把な包含的類概念である、と言うことができる。

エドワーズとアルミニウス主義との関わりは、1734年の「ブレック事件」に端を発する。ロバート・ブレックは、ハーヴァードを卒業後、スプリングフィールドという町の教会に牧師として招聘されて按手を受ける準備をしていた。当時の牧師招聘の慣習では、教会がまず候補者の説教を聞き、総会の議決を経て牧師に定住を要請し、その後に近隣教会の牧師たちが按手をする、という順序であった。しかし、ブレックの按手に際しては、彼の「信仰と道徳に関する疑義」を提出する者があり、「ハンプシャー教会牧師連合」は彼の按手を見合わせた。ここに言う「道徳」に関する疑惑とは、彼がハーヴァード在籍中に窃盗の嫌疑で停学処分を受けたのではないか、というものであった(彼自身の説明によれば、休学は天然痘の療養のためである)。他方、彼の「神学」面では、彼の見解のうち次の三点が疑義ありとされた。

  1. 聖書本文の一部は、霊感によらずに書かれた。
  2. 罪の贖いのためにキリストが正義を充足することは、絶対に必要というわけではない。つまり、神がキリストの充足なしに罪を赦したとしても、それは正義に矛盾しない。
  3. 異教徒であっても、自然の光に照らされつつ正しい生を送った者は、救われる。

教師検定の基準は、どこの国でも問題の種になるようである。

 

しかし、スプリングフィールドの教会はむしろブレックの肩をもった。そこで「ハンプシャー教会牧師連合」は、按手のためにはさらに彼の人格と神学の正統性を保証する有力な牧師の推薦が必要である、という結論に達した。ブレックはボストンに帰り、そこで約束の推薦を取りつけた。おまけに、自分の按手礼には、通常のような近郊4教会の牧師の他に、ボストンからも4人の牧師を引き連れてきて参加させる、という手はずを整えた。ところが、これが地元牧師たちの反感を買うことになる。彼らは、各個教会主義という会衆派の政治原則をもち出して異議を唱え、これを阻止しようとする。そのために、彼らはマサチューセッツからの牧師団の到着を郡警察に通報し、不法侵入の廉で彼らを逮捕するように要請した。

事態をさらに複雑にしたのは、この教会会議の会場に出向いた保安官である。彼は、自分が牧師連中の政治的騒乱に巻き込まれるのを恐れ、何と代わりに按手礼直前のブレック本人を治安騒擾罪で逮捕してしまったのである。もうこうなると、どこかの国の教団総会にも似て、賛成反対入り乱れて上を下への大騒ぎである。居合わせた判事はブレックの収監を支持したが、人々の抗議にあって結局彼を釈放せざるを得なかった。騒ぎは翌日も続き、賛成派は涙ながらに祈りと抗議の集会を開き、一方反対派はボストンの一行が帰るのを待って矢継ぎ早にパンフレット攻勢を始めた。事件の成り行きはボストンでも耳目を集めたが、その年の11月になると、ついにスプリングフィールドの教会は、ボストンの一般法廷に問題を提訴した。彼らは、町の司法当局が教会の自治権を侵害することは許されないと主張して勝訴し、翌36年の1月にようやくブレックの按手礼を済ませて正式に彼を任職したのであった。

エドワーズははじめ、この「ハンプシャー教会牧師連合」の書記をつとめ、後には「偶数の委員で会が構成されることの不都合を取り除くため」に、委員に加えられた。いずれもこの会議の実権をにぎっていた彼の叔父ウィリアム・ウィリアムズの求めに従ってのことである。さらに1737年には、委嘱を受けて念入りな「牧師連合」擁護の小冊子を書いた。この小冊子の出版により、エドワーズは否応なく「反アルミニウス主義」の神学的指導者に仕立て上げられてしまったわけである。この時から、彼は教会を追われる運命へと定められてしまったと言ってよい。アルミニウス主義との戦いは、ある意味で近代精神との戦いであったので、エドワーズはすでにこの時点で負けるとわかっていた戦の大将に駆り出されたようなものである。

はたして予想された通り、1741年にウィリアムズが死ぬと、アルミニウス主義に対する世間の風向きは急速に変わってゆく。ブレックは名誉を回復されて権威あるこの「ハンプシャー教会牧師連合」の一員に加えられる。そしてこの同じ「牧師連合」の構成する委員会が、9年後の1750年に、今度はエドワーズ自身のノーサンプトン教会解任勧告を決議するのである。ブレックは委員会を構成する10人の牧師のうちの一人だったが、信徒側の委員一名が欠席して票決は一票差(10対9)だったので、ブレックの存在は決定的であった。

なお、私はブレック事件に関する第一次史料を、すべてプリンストン神学校のスピア図書館で直接読むことができた。貴重な稀覯文献の閲覧を許可してくれた同図書館の好意に記して深く感謝したい。