エドワーズの辞任説教は、教会解任決議の9日後、1750年の7月1日に行われた。疑いもなく彼は深く傷ついていたが、その説教は驚くほど透明で、私怨のこもったものではない。冷静に、常変わらぬ口調で、去り行く教会のそれぞれの年齢層の人々に細やかな牧会的忠告を残している。説教は「将来の偉大な主の日の厳粛な再会」を覚える祈りで終えられている。

最後までエドワーズと共にあった小数のグループは、教会会議の辞任勧告に対し、即日付けで抗議の文書を提出したが、何の効果もなかった。ノーサンプトンにエドワーズを中心とした第二教会を設立しようとする動きもあったが、彼自身が乗り気にならなかった。エドワーズ擁護派は、その後も2年ほど教会の聖餐式には加わらなかったという。一方、教会の方でも奇妙に不如意な現実に気がつきつつあった。のろのろと新牧師招聘の手続きがとられたが、信仰上の問題で良心的な牧師を追放した教会に新しく赴任しようとする若い牧師は少ない。そこで、代わりの見つからないままに、教会は自分たちで追放したはずのエドワーズを、その後も何度となく元の説教壇に招かざるを得なかったのである。このような状況に立たされて、牧師はどのような思いで説教し、また会衆はどのような思いでそれを聞くのであろうか。ノーサンプトン教会がある無色透明のおとなしい新任牧師を迎えることができたのは、その後ようやく3年を経過してからのことであった。

エドワーズはといえば、どこへ行くというあてもなかった。彼のところには、大西洋の向こうのスコットランドを含め、いくつかの教会からの招聘状が舞い込んできていたが、そのいずれも彼の心を動かすまでには至らなかった。彼は、牧師館づきの農場をしばらく使いたいという要望も却下され、妻と11人の子供を抱えて、弟子たちの家を点々としながら、文字どおり一家で路頭に迷ったようである。しかも、かくも不安定で先行き不透明な事態の中で、エドワーズ家では2人の娘が結婚した。おそらくそのための出費もかさんだことであろう。彼は、早急に新しい仕事を見つけなければならなかった。彼が「ストックブリッジ」というマサチューセッツ西部の辺境に、インディアンの寄宿学校教師兼付属教会牧師として赴任したのは、ようやく翌51年の夏であった。

ノーサンプトンからストックブリッジへの道は、州道9号となった現在も一車線で、山の中の寂しい道である。私自身も、論文の執筆をあらかた終えたある日、この道を通ってストックブリッジを訪ねたことがある。ちょうど日が暮れかけており、夕焼けが前方の空をはじめは赤く、やがて深い紫に染めていった。暮れなずむ森を見ながら、私はどうしても240年前にこの道を通ったエドワーズの心境に思いを馳せずにはいられなかった。エドワーズと自分をひき比べるなど、まことにおこがましい話で、読者は笑いたければお笑いくださって構わない。けれども、はてしなく長く思われた道のりをようやく走りおおせ、5年ぶりに日本へ帰る日が近いことを思い、とりわけそのために家族にかけた苦労のことを思うと、自分の旅路がはるかにその時のエドワーズのそれとつながっているように思えてならなかったのである。――エドワーズが町に残していた家族とともに最終的にノーサンプトンを引き払ったのは、秋も深まった10月半ばのある日のことであった。

今日のストックブリッジは、森の木立の中に洒落たB&B(朝食つき小ホテル)が見え隠れする静かな静養地である。距離からすればニューヨークやボストンからもそれほど遠くないし、近くには大きなインターステート(高速道路)も通っているので、都会の疲れをゆっくりと休めに来るには適当なところなのかもしれない。「ミッション・ハウス」という名で今も残る木造の家は、エドワーズの前任者ジョン・サージェントが1739年に建てたもので、移築されてはいるが、当時の家具や庭の様子などがそのままに保存されている。

この場所にインディアンのための学校施設を据えたことには、単なる福音宣教という目的以外の思惑があったはずである。対仏戦争がなかなか収まらなかった当時、イロコイ族が敵味方のどちらの陣営に属するかは、戦局の帰趨を左右しかねない重要な戦略的意義をもっていたことだろう。派遣された宣教師がサージェント(軍曹)と、いかにもふさわしい名前であるのも奇妙な偶然である。エドワーズの名はそこでも記憶されているが、町の功労者はどうも1749年に亡くなったこの初代の宣教師サージェントのようである。いくらこの地でエドワーズが歴史に残る神学の世界的名著を書こうとも、それで町の名前が売れたわけでもなし、町の発展に貢献したわけでもない、というところだろうか。

しかし、エドワーズは神学だけを頭に詰め込んだ行政的無能者ではなかった。彼は、当地の責任者として克明な記録を残し、事業の出資団体であるボストンとロンドンの「福音伝播協会」と頻繁な手紙のやりとりしていたので、ストックブリッジ時代は彼の人生でもっとも多くの史料が残されている時代となったほどである。これらの記録を辿って明らかになるのは、エドワーズがここでも彼を教会から追放したのと同じ地元企業家との戦いを強いられていた、ということである。ストックブリッジの白人小教会を14年間にわたって預ってきたのは、ウィリアムズという名の一家であるが、彼らはこの宣教事業を食い物にして自身の経済的繁栄を図ろうとする、まことにあくどい連中であった。もともとノーサンプトンの出身であった彼らは、その後もエドワーズ追放に加担した一族と密接な連絡をとっていた。良心的な彼は、明らかに「歓迎されざる人物」である。彼らはいろいろな中傷を流して画策したが、結局彼の赴任が決定すると、今度はそれを機会に自分の土地の値段をつり上げようと狙う始末である。もし公明正大なエドワーズが就任しなかったら、この事業もこの町も、やがて食いつぶされて存続することすらできなかったであろう。

エドワーズは、辺境の地での時間を最大限有効に用いた。けっして暇とゆとりの毎日だったわけではない。教会と寄宿学校の任務のかわたら、再び高まる戦争の緊張のために、彼の家はしばしば植民地軍の駐屯地となった。ある年の記録には、セアラが兵士たちのために用意しなければならなかった総計800食と7ガロンのラム酒の代金の請求書が残されている。これらの絶え間ない喧騒と雑務の中で、彼は『自由意志論』『原罪論』『真の徳の本性』『神の世界創造の目的』などの神学的な著作を、次々と紡ぎ出していった。