エドワーズ自身の伝えるところによれば、ストダードの死後、町の宗教的な雰囲気はひどく低迷した。宗教心は鈍り衰え、若者の間に放縦が見られ、町では長く争っていた二派が全面的対立へと進む様相を示していた。エドワーズはしばらくの間何をどうすることもできず、説教のスタイルと教会運営についてはもっぱらストダードのやり方を踏襲することで凌いでいった。しかし、後年彼はこのことを後悔し、若く未経験な自分は、それが将来の教会の生命にどれほど悪影響を及ぼすことになるかを予見することができなかった、と述懐している。エドワーズ本来の牧師としての活動は、1730年も数年を回った頃にようやくあらわれるといってよい。

さて、ジョナサン・エドワーズと言えば、まず頭に浮かぶのは「大覚醒」である(であってほしい)。「大覚醒」(The Great Awakening) ないし「信仰復興」(Revival) と呼ばれるこの大規模な宗教現象は、1740年の方が規模が大きいが、それに先だって、まず1734年の冬から翌年春にかけてエドワーズのいたノーサンプトンに端を発している。事の起こりは、信仰義認を主題とした彼の一連の講演である。後に出版されたこの説教集の序文によれば、エドワーズはこの説教によって覚醒が起こったことを、「神が信仰義認の教理を是認しておられることの驚くべき証言」であると受け取っている。その冬、若者たちの間で以前から少しずつ高まっていた宗教的な真面目さが、二人の若者の死とある身持ちの悪い婦人の劇的な回心をきっかけに、町全体へと広まった。エドワーズの説教により、新しく信仰をみずからのものとして受け入れる者、古くからの信仰をさらに燃え立たせられた者など、教会は生き生きとした礼拝者で溢れるばかりとなり、町の人の話題と関心がこぞって信仰に向けられるようになる。その結果、ノーサンプトンでは半年の間に300人もの人が「神の恵みが savingly にみずからの内に働く」のを経験したという。回心の恵みを経験した者は、男女を問わず、4才から70才以上までの幅広い年齢層にわたっている。人々は会うたびに「もう(回心を)経験されましたか」(Are you gone through?) と挨拶がわりに聞きあったという。その年を越えると、覚醒はさらにノーサンプトンからコネチカット渓谷のほぼすべての町に伝搬し、同じような宗教的高揚と興奮をもたらした。

エドワーズははじめ、こうした覚醒運動に対する注意深い観察者として出版活動を行った。彼の名が大西洋を越えて知られるようになったのは、まずこのノーサンプトン・リヴァイヴァルの「誠実な報告」(A Faithful Narrative) の著者としてである。その後も彼は、大覚醒時代を経て『神の霊の業の弁別的な徴』や『信仰復興に関する若干の考察』などの著作を出し、一貫して第一ヨハネ4章1節のみ言葉通り、注意深い弁別的な賛成という態度を堅持した。これらはさらに、彼の主著の一つである『宗教的情感論』執筆の基礎となってゆく。ちなみに、エドワーズの『誠実な報告』はその後も版を重ね、つい前世紀の半ばまでは複数の教派で信仰再生のための手引きとして参考図書に指定されていた。

しかし、覚醒はすでに回心の恵みを体験した人にとっては歓喜の極みであるが、求めつつもそれを得られない人にとっては地獄の呻吟である。恵みは内面的に体感せられるものと考えられており、人間の側でそのために準備をすることはできても、それはあくまでも準備であって、それ自体が自動的に神の恵みを引き起こすわけではない。キング・ストリートの牧師館は、回心の恵みを体験できた人の喜びの報告と共に、どんなにそれを求め願っても得られない人の悲嘆と悩みの相談が交錯する場となっていった。

エドワーズはこれら悲喜こもごもの人々に適切な助言をなし、讃美歌を歌う集会を組織して人々の溢れくる激情に節度ある表出方法を与え、それぞれの年齢や状況に応じて会衆を小グループに分け、いわゆる「家庭集会」などの小規模な集まりを奨励し、特に配慮の必要な人々を牧師館に招くなど、多角的な牧会活動を行った。しかし、やがて人々の熱気は彼のコントロールを逸脱するような局面を見せ始める。

なかでも、「ジョゼフ・ホーリー事件」は町を震撼とさせた。ホーリーは、エドワーズの母方の叔父にあたり、"river gods" と呼ばれるノーサンプトンきっての大商人・実力者の一人であったが、回心体験を得られず、以前から不眠と憂鬱の徴候を示していた。おりしも覚醒熱は春を過ぎた頃から爛熟気味であったが、6月1日の聖日の朝、ついにホーリーは絶望のあまり喉をかき切って自殺する。そのニュースが町を駆け巡ると、多くの人々が彼のあとを追うようにとの強い誘惑を受け、「おまえも喉を切れ、今がその時だ、さあ、今だ!」という恐ろしい声を心に聞いたという。回心の恵みを得られない以上、人は長く生きれば生きるほど罪を犯し、終わりの日の審きに罰を増すことになる、というのがその狂気の論理であった。

かくして、「天来のシャワー」は終わりを告げたが、町はその途端に別の呪文の虜となり、今度は悪魔の叩くドラムの音に合わせて行進を始めたかのようであった。幸い、ホーリーの真似を企てる者も、それに成功したわけではなかった。その年の暮れになると、ノーサンプトン・リヴァイヴァルは完全に終息し、エドワーズの日記にも「宗教の衰退」を嘆く言葉が散見されるようになる。

ところで、ここにもわが「見聞録」にふさわしい因縁話がある。知らせを受けたとき、ホーリーの妻レベカは裏の小部屋でチーズを作っていたが、その作りかけのチーズを仕上げるまでは部屋を出ようとしなかった、と伝えられている。静かに棒を回しながら、かの女は何を思ったことであろう。ホーリーには当時12才になる息子(やはりジョゼフという名であった)がいたが、やがて成人したこのホーリー・ジュニアは、1750年にエドワーズが教会を解任されるときに賛成に回り、父の仇(?)を討つことになる。明らかに彼は、父の事件の直後に「エドワーズは悪魔の手先である」と公言して罰金と鞭打刑を受けた者のあったことを覚えていたのである。

しかし、話はさらに続く。ホーリー・ジュニアは、年を経るにつれてその賛成を深く後悔するようになり、エドワーズが死ぬと、「自分は叔父が委員長を務める解任委員会にそそのかされて牧師を非難したが、それは誤りであった」という、衷心からの悔い改めとエドワーズの名誉回復の訴えを提出したのである。「棺を蓋(おお)いて事定まる」というが、エドワーズの告別説教にあるとおり、私たちはそれよりもさらに先を望み見ねばならない。