前回の「ブレック事件」にしても、また次回に記す予定の「悪書事件」にしても、読む者にエドワーズをやがて教会辞任へと追いやってゆく運命の暗さが重くのしかかってくるような話である。今回はそのさ中で、同じように悲劇的ではあっても、なおほのぼのとした明かりの射し込む話もあったことを記しておきたい。

エドワーズとセアラの間にはあわせて11人の子供があった。彼の生まれた家庭がそうであったように、エドワーズ自身の家庭も、それぞれが互いに深い家族愛で結ばれた暖かいものであった。長女は母親と同じセアラという名であったが、やや個性の強いところがあり、それが父エドワーズをして記録に残されている限りただ一つの当意即妙なせりふを語らしめる機会となった。ある青年が彼女に結婚を申し込んできた時、エドワーズは父親としてまったく直截に彼女の「不愉快な性癖」について彼に言って聞かせた。話を聞いたその青年が「しかし彼女が恵みを受けていることは確かでしょう?」と尋ねると、エドワーズはこう答えたのである。「そう思います。けれども、恵みはあなたが生きられないところでも生きることができますから。」(I hope she has, but grace can live where you cannot.) もっとも、これとてもエドワーズ自身の創作ではなく、父ティモシー以来使い回されていた「家庭内伝承」の一端だったかもしれない。娘の多い女系家族である。

二番目の娘はジェルシャといい、父の言葉によれば、「一家の華」といわれる快活な娘であったが、彼女は一家の中で一番早く婚約し、そして一番早くその愛する人を失い、自身も一番早くこの世を去ることになる。その相手の人物が、先住民への若き伝道者デイヴィッド・ブレイナードである。

ブレイナードは伝道の熱心に燃えた血気盛んな若者で、イェール時代に次のような逸話を残している。リヴァイヴァルの嵐がニューイングランドを席巻していた1741年のある日、祈りの下手なある教師のことをどう思うかと聞かれて、彼は「あの先生はここにある椅子ほどにも恵みを受けていない」と断言し、伝え聞いたその教師により直ちに退学に処せられてしまったのである。2年後、他の級友が卒業する時になって、彼はみずからの誤りを認め、学位を授与してくれるように特別の請願を出した。しかし、教授会はこれを拒絶した。エドワーズはその場に居合わせて初めてブレイナードを知り、拒絶にあった彼の穏やかさと謙遜に非常な感銘を受けている。

その直後ブレイナードは志願していたスコットランドの伝道協会の任命を受け、最近「ストックブリッジ」という名がつけられたばかりの山の中の小さな伝道拠点へと赴いた。そこには既にエドワーズの下で学んだジョン・サージェントが活動を始めており、ブレイナードは彼から現地のインディアン語の知識とエドワーズとの知宜を得たのであった。ブレイナードは、その後も別の教会から招聘を受けたが、「自分は既存の教会ではなくいまだ福音が宣べ伝えられていないところに召命を受けている」と言って断っている。1744年にはデラウェア河畔での伝道に転じ、翌年その地の先住民の間にリヴァイヴァルのような大回心を起こした。彼は絶え間なく馬に乗って伝道を続け、1745年の暮れまでに3,000マイルを走った。週平均にして約20時間を鞍の上に過ごしたことになる。その日記によれば、時には厳寒に川に落ち、濡れた服を乾かすこともできぬまま走り続けなければならなかったこともあった。ニューイングランドの冬の厳しさを知る者ならば、これがいかに苛酷なことであるかは想像がつくであろう。体力の消耗しきったブレイナードは、いつしか結核を患い、病に蝕まれながらも伝道を続け、ついに快復することがなかった。

エドワーズも彼の驚くべき活躍を聞き及んでおり、その伝道記録にも目を通していたが、1747年5月末のある日、この一度だけ面識のあったブレイナードの突然の訪問を受ける。彼は冬以来ボストンを目指して北上中であったが、衰えつつある健康のために、途上いくつかの家に逗留しながら旅を続けていたのであった。ちなみに、その直前は冬中ジョナサン・ディキンソンの家に逗留していたが、このディキンソンは創設間もないニュージャージー大学(後のプリンストン大学)初代学長だったので、エドワーズの家に乗り込んできた時、彼はそれと知らずに第一代から後の第三代の学長の家へと渡り歩いたことになる。彼の病はすでにかなり進行していたが、逗留の間にややもち直し、ブレイナード自身の言うところによれば、冬よりもずっと調子がよいので、さらに先へ進みたいと言う。エドワーズは医師と相談の上、根負けして彼を送りだした。しかも、二週間の滞在の間に、彼はジェルシャの尊敬と愛情を勝ち得てもいた。大胆にも彼女は、「看護かたがた彼の伝道旅行に同伴したい」と申し出たのである。エドワーズとセアラはこれを許可した。両親の承諾があるとはいえ、結婚前の娘が二人だけで旅行するということは、当時けっして普通のことではなかったであろう。そこには、通俗的な結婚の倫理に縛られることなく、当事者間の「信実」を第一に考える、というエドワーズの開かれた態度があった。

その後の二人の短い同伴の生涯を顧みるならば、人はエドワーズの判断がさらに愛と配慮に満ちたものであったことを知るだろう。はたしてブレイナードはボストンに着くか着かないかのうちに病をぶり返し、ジェルシャは父母のもとに「彼はもう息をする気力もありません」という悲痛な報せを書かねばならなかった。7月末、這うようにしてノーサンプトンの家に帰り着くと、デイヴィッドはもはやベッドから起き上がることもできず、ただ脇のジェルシャと切れ切れに霊的な会話をするのみであった。彼は、やはり同じようにニュージャージーで先住民伝道に励んでいる弟に、みずからの死期が近いこと、兄の死にも落胆せずみ業に励むべきことなどを書き送り、ジェルシャと次のような最後の会話を交わして、10月9日静かにこの世を去っていった。

「愛しいジェルシャ、おまえはもう私と離ればなれになる用意ができているかい。私はもういつでもその用意ができている。……けれども、私たちはもうじき幸福な永遠 (a happy eternity) を一緒に過ごすのだ……。」
30年あまりの短い生涯であった。エドワーズは彼の葬儀で説教し、遺言にしたがってその伝道の記録をまとめ、これを1749年に出版する。そして、彼の死の5ヶ月後、同じ病に冒された18才のジェルシャも、後を追うようにして静かに息を引き取った。開放性の結核が日夜つききりで看取る者に伝染するという危険を誰も知らなかった、というわけではあるまい。けれども、ジェルシャにとってそれは、おそらく不幸なことばかりではなかったであろう。二人は今も天国で「幸福な永遠」を共に過ごしているのだから。
『形成』No. 271(1993年7月号)18-19頁