「プロテスタンティズムの真髄はピューリタニズムであり、ピューリタニズムの精髄はジョナサン・エドワーズである。」――ペリー・ミラー

 

「見聞録」第1回よりの宿題は、「なぜ今エドワーズか」ということについて、いま少し掘り下げるということであったが、その理由のひとつをミラーの言葉で言い直すと、こういう表現になる。もしこの言葉が真実なら、エドワーズはピューリタニズムのみならず、プロテスタンティズム全体を見渡すための最良の見晴らし点を提供する神学者だということになる。さらに、これとはやや違った意味であるが、ごく最近にもエドワーズを特にアメリカ的なキリスト教の塑型を形づくった神学者として称揚する研究が出た。その本の題名にエドワーズは "America's Theologian" と呼ばれているが、それは単に "an American theologian" すなわち「アメリカ的な神学者のひとり」ないし「アメリカ出身のある神学者」という意味ではなく、「アメリカという精神現象の全体を端的に表現することのできる代表的神学者」という意味であろう。日本の教会のかえりみられざる伝統としてのアメリカ・ピューリタニズムを理解するのに、これほどふさわしい対象はない、ということになる。

 

ただし、このような巨視的な見方には常に思想史上の強引さが伴う。そういう意識をもって読むのは結構だが、それを具体的に史料をもって検証する作業となると、やや慎重にならざるを得ない。私自身、時を経るにつれ、このような視角が必ずしもエドワーズの全体像を描き出すのに十分ではないと感ずるようになった。言うまでもなく彼の神学は、彼の生きた時代と場所との関心事や課題設定に規定されている。しかし、他のすべての優れた神学と同様に、彼の神学もまたこうした時空限定を越えた普遍的な何かを表現している。単にプロテスタント的・ピューリタン的であったりアメリカ的であったりするだけならば、20世紀の日本人がそれを学ぶのにどれほどの意味があるであろうか。エドワーズは、私にとっては歴史研究ではなく、歴史に題材を求めつつも、それを足がかりにして普遍的な神学の課題を追求する組織神学の研究である。

もっとも、私が論文のテーマにエドワーズを選んだのは、はじめはごく簡単な理由からであった。プリンストンはエドワーズと関係の深い地である。私はそこで学ぶ価値のもっとも大きいものを学びたいと思った。アメリカに出かけていってバルトを学ぶ、というのもけっして意味のないことではないだろうし、あるいはアジア・アフリカから来た留学生がよくやるように、自分の出身地がらみのテーマを設定する、というのもわからないではない。そのほうが新味があって受けもよいし、自国のことはやりやすいからである。しかし、それではなぜそこへ来る必要があったのか、本当のところわからなくなってしまう。留学する以上、やはり中央突破をねらうのが本筋ではないかと思う。それで私はエドワーズを選んだ。

さて、このようなエドワーズの神学が体現している普遍的なもののひとつに、パイエティの問題がある。今日「敬虔」という言葉は死語に近い。「敬虔主義」は個人の内面と魂の救いにのみ関心を持つ保守的な運動という意味であるし、「敬虔な」という言葉はせいぜいマスメディアが「クリスチャン」を形容するのに使う常套文句で、われわれが実生活に使うには気恥ずかしいものになってしまっている。これは、ひとつにはプロテスタントの自己理解があまりに深くウェーバー流の社会学的な生産性という観点からの評価に規定されてきた、ということと無関係ではないだろう。社会倫理や経済生活に及ぼす影響力の大きさからはかると、狭義の敬虔主義は、アクティヴな世俗内禁欲に転化しない限り、社会学的には無力な集団であると判断されてしまう。しかし、だからといって敬虔主義的なモチーフやその内面的な宗教性そのものが無意味なのではない。その当座は非生産的に見えても、それはやがてそこから咲き出す花の根っこなのである。逆に言えば、今日のわれわれは前世紀のパイエティの遺産で食っているようなものである。いまこの根っこを枯渇させてしまうと、「ガイストロースな専門人・ヘルツロースな享楽人」という空洞化と形骸化がいっそう進み、21世紀にはキリスト教宗教そのものが死滅してしまうであろう。そこに、今日単にアクティヴなピューリタニズムという意味あいを越えた豊かな宗教性を持つエドワーズを学ぶ意味があるのである。

今日のパイエティの喪失ないし希薄化のいまひとつの原因に、いわゆる弁証法神学の奇妙な影響があるかもしれない。私も四国にいたときはよく近隣の牧師たちの「バルト勉強会」に参加させて頂いた。東京のような根なし草的なインテリ集団と違い、地方の教会の伝道はやはり日本的な宗教性との対決が不可避である。そこでは、バルトのようにすべての宗教を人間的な自己義認の行為としてばっさりと切り捨て、その真空状態のなかへ不可能を可能にする逆説的な真の信仰を導入するというやり方は、ときにドラマチックで有効である。しかし、他宗教を切るその同じゴルディアスの刀で「宗教としてのキリスト教」をも切る時、そこに何か失われるものはないであろうか。バルト自身、信仰を宗教と峻別するとはいっても、それは彼なりのパイエティ(例えばブルームハルト的な)があってのことである。そこはこれまでの日本の読み方ではあまり強調されることがなかった。バルト神学の日本的な読み方の問題点については、すでに古屋先生の論考などがあるが、しかしそこでも注目されているのは、「バルト自身は反ナチス闘争へと赴いたのに日本のバルティアンは戦争に協力し体制に順応した」という結果面であって、神学のポテンスをその政治的・社会的な生産性によって評価するという意味では、なお上述のウェーバー的な理解軸に沿ったものである。私はさらに、それらの根っこにある「敬虔の型」そのものに眼を注ぎたいのである。

エドワーズの神学も、一見社会学的には無力とも見える深遠かつ幽玄なパイエティに根ざしている。これを、アメリカの独立を精神的に準備したとか、あるいは弟子のひとりが最初の奴隷解放論者となったとかいう点から評価することも可能であろう。しかし、私の関心はむしろ、それらを生みだしたもとのところにある彼のパイエティそのものにある。なぜなら、パイエティはアクティヴィズムを産むが、その逆は必ずしも真ではないからである。後者は前者を産むことはないし、また前者なしに自己を再生産をすることもない。エドワーズに学ぶことは、パイエティをパイエティとして成り立たせ、持続させ、回復させるものは何か、ということを尋ねることである。

すこし真面目な話になりすぎたので、次回は熊さん八つあんの「見聞録」にふさわしい話題を取り上げよう。