ノーサンプトンの町の歴史は、1654年に遡る。教会は入植後5年ほどして建てられ、初代牧師にはインクリースの2才年上の兄エレアザル・マザーが招聘された。しかしエレアザルは32才の若さでこの世を去り、あとには25才の美しい未亡人エスターと3人の幼い子ども、それに豪荘な牧師館と広大な農場が残された。

ペリー・ミラーによれば、ニューイングランドではこのような場合――すなわち町が牧師定住のためにかなりの額の資本投下を行った後でその牧師が亡くなり、未亡人がいまだ結婚可能な年齢にあるという場合――人々のとる手段はほとんど慣行的に決まっていたという。それはつまり、若い独身の牧師を後任に選ぶ、という方法である。これがホントかどうか、「慣行」と呼ばれるほどに一般化していたのかどうか、残念ながら当見聞録には判断のしようがないが、ノーサンプトン教会の場合は、果たしてこれがきっちり町当局の思うつぼとなり、招聘された新任牧師のソロモン・ストダードは、時をおかずしてエスター・マザーと結婚し、町に定住することになった。そこに至るまでに二人の間にどのような想いが交わされたのか、それは読者の皆様の慎みあるご想像に委ねるより他にない。が、ノーサンプトン町史に残された記録によれば、エスターは彼に12人の子を生み、夫より7年長生きして92才の長寿を同地で全うしている。

ところで、ソロモン・ストダードの名前は、単に「エドワーズの前任者」として露払いのように記憶されるばかりではない。教会史の専門家にとっては、彼の名は「オープン・コミュニオン」という大いに誤解を招く制度と分かち難く結びついているが、これはいずれエドワーズの辞任問題の時にでも触れる機会があると思うので、ここではもう少し別の見聞を広めておこう。

彼の名は、実はハーヴァード大学の図書館と深い関わりがある。ストダードは、1662年に19才でハーヴァードを卒業し、その後も大学に残って3年後には修士号を得た。そして、1666年の11月より1672年にノーサンプトン教会に赴任するまで、同大学の講師を勤めたが、その間ハーヴァード大学最初の "Library Keeper" に任命されている。したがって、こんにちのあの巨大なハーヴァード大学諸図書館の歴代最初の図書館員かつ館長は誰かと言われれば、このストダードだということになるのである。エドワーズもまた講師時代に、すでに述べたイェールのダマー文庫の整理に関わっており、大学理事会がその努力に報いて彼の講師給与に5ポンドを上乗せすることを決定した記録が残されている。エドワーズをイェール大学図書館の最初の館長と言うことはできないにしても、この二人はそれぞれハーヴァードとイェールでよく似た仕事をしているわけである。おまけに、ふたりともその職務の途中で健康を害し、しばらく転地静養してからノーサンプトン教会に赴任した、という経緯まで同じである。ここまでの二人の経歴には何となく似通ったところがある。

さてストダードは、こうした図書館での仕事と共に、個人の蔵書家としてもアメリカの大学史に貴重な資料を残してくれている。それは、彼が大学院時代に個人で所有していた本の一覧表(現在ユニオン神学校の図書館に所蔵されている)で、この種のものとしてはアメリカ史上最古のものである。これによりわれわれは、初期ハーヴァードの教育内容や植民地時代のアメリカの教養の基礎をなした文献の数々を知ることができるのである。八〇冊ほどのそのリストは、ざっと見ただけでもきわめて興味深いものがある。順当なところでは、聖書の原典や辞書類に始まり、イギリス・ピューリタニズムや大陸の改革派神学者たちの著作、それに改革派の信条集や論理学教本が含まれている。古典ではホメロスやキケロ、近世ではエラスムスとデカルトの名前が見える。

しかし、特に注目に価するのは、これは私自身の論文にもかかわるところであるが、これらの当然予想される系統のものに混じって、トマス・アクィナスの著作と、スアレスやベラルミーニといった後期トマス主義者たちの著作が含まれていることである。つまり、ピューリタン・ニューイングランドの教育は、一般教養としてもある程度の幅と広がりをもっており、また神学的にもしばしば想定されてきたような偏狭な教派主義や排他的なプロテスタント主義に囚われてはいなかった、ということである。

ストダードと図書館の関わりについて、ついでにもう一つ見聞話をしておこう。私は、ある図書館員の好意で、ノーサンプトンの町の図書館が秘蔵しているストダード自筆の説教原稿を見せてもらったことがある。エドワーズの字も小さいが、その次にストダードの字を見たとき、私はほとんど眼の前のものを信じられなかった。片手の中にすっぽり納まるような 6x4 インチ位の四角い紙に、虫眼鏡でなければ読めないほどの小さな字が隙間なくぎっしり詰まっている。一つの字がおそらく1ミリ位であろう、ほとんどペン先の揺らぎかと思えるくらいの細かさで、まるで米粒に書くような芸当である。いったい例の羽根ペンはこんなに細かい字を書くことができたものだろうか、あるいは、今日のわれわれが使う普通の筆記具でもここまで細かい字を書くのは困難ではないか、と思われるほどに小さな字だった。いっそう不思議なのは、そんな小さな字を「書く」ことができたということよりも、それを説教の時に「読む」ことができたということである。もちろん、彼はそれを単に「読み上げた」わけではないだろう。聖日の朝までには、説教の内容はすべて彼の頭の中に記憶されていたのかもしれない(読者はニューイングランドの説教が二時間の長さであることを銘記されたい!)。ストダードの葬儀に際して読まれた賛辞のなかに、彼が「原稿を見ることもなく、声の力と記憶の力をもって」説教した、という一節があるからである。しかし、それにしてもそのノートは、明らかに手に持って講壇に上がれるように作られたサイズである。もし一見するだけであの微細な字が読み取れたのだとしたら、はて、そのような牧師の眼に射すくめられて聞く会衆は、いったいどんな心持ちがしたことだろうか。

ストダードは、ハーヴァード最初の図書館長たるの栄誉を裏切らず、その後も読書家であり続けた。その死に際して遺された蔵書は、462冊の本と、それを上回る量の小冊子類を数えたという。