エドワーズとノーサンプトン教会の対立には、さまざまな要因が複雑に絡み合っている。その一つは、きわめて実際的なことだが、牧師謝儀の問題である。すでに触れたように、ニューイングランドで牧師の給与が教会の中で争論の種になるのは稀なことではなく、ある統計によれば、1680年から1740年の間に、全ニューイングランドの牧師の12%がこの問題に巻き込まれている。それは、彼らが金銭にあくどかったからではまったくなく、招聘牧師の謝儀についての共通の理解や制度がいまだ確立していなかったからである。例えばその金額は、ちょうどいまのプロ野球選手のように、毎年はじめに年棒で決められる。しかし、どのような金額上の取り決めが存在するにもせよ、貨幣が今のように無際限に流通していたわけではなかったので、毎度それが耳を揃えて現金で支払われる、ということは少なかった。その財源も、巡査 (constable) が地方税 (rates) として教区民から徴収する、というやり方で集められていたので、数カ月の遅配ということもままあることであった。牧師は、家庭で薪や生活資の支払いに差し障りが出ると、どうしてもこれを公けに訴えなければならない。霊的な指導者としての牧師の自意識は、少なからず傷つくことになる。

就任直後のエドワーズのサラリーは、農地や牧場の他に年に100ポンドという、当時の水準からすれば比較的高額のものだったが、すでに1734年には「遅配のため家計が破産状態になっている」と教会に訴える手紙が記されている。彼は、繰り返し「年毎に決めるのではなく固定給にしてほしい」という要望を出し続けた。この要望は最終的に1748年にかなえられ、彼は年に700ポンドに加えて家族手当と書籍費として170ポンドをもらう、という決定を得るに至る。  しかしその途中、1740年に100ポンド、2年後にもう一度50ポンドの昇給を要請した時には、町の人々に少なからぬやっかみを引き起こした。エドワーズは、これに答えるために自家の家計を人々に公表したが、皮肉なことに、人々はその実状を知るや、さらにかまびすしい噂と私生活の詮索をはじめるようになった。いわく、あの家族数なら年俸の半額でまかなえるはずだとか、セアラの例の首飾りは11ポンドもする代物らしいとか、エドワーズ氏は(当時まだ紐靴が一般的であったのに)ボストンで流行っている留め金つきの靴をはいているとか、彼らの服はいつもボストンで仕立てられており、帽子は3ポンドもするものだ、などなど……。うわさ話にはきりがない。「やれやれ」というため息が聞こえてきそうである。長女セアラの当時の手紙には、あまりに状況が険悪なので、父はどこか適当な道があれば転進を考えているようだ、とも記されている。創立の機運にあったニュージャージー大学がエドワーズの名前を初代の学長候補に挙げたのも、この頃のことである。

これらの牧師謝儀を巡る不協和音が響く中、エドワーズと教会員とを決定的に仲たがいさせてしまう事件が起こった。1744年3月の、いわゆる「悪書 (bad book) 事件」と呼ばれるものである。史家によってさまざまに取り上げられるが、通説の語るところによれば、事件の中心は、数人のにきび顔の少年たちがどこからか「助産婦の手引き書」を手に入れてきて回し読みしていた、という他愛のないことであった。事件が牧師の耳に入るまでには、主犯格の少年達ばかりではなく、町の有力な家柄の子女にもその秘やかな輪が広がる兆しがあった。エドワーズは直ちに通常の風紀粛正の手続きにしたがって、聖日礼拝のあとの報告で事件に触れ、委員会を設置して調査を始める旨を教会員に告げた。ニューイングランドの教会は、このような場合のためのほとんどルーチン化した手続きをもっており、この度もここまでは何も変わったところがなかった。しかし、会衆を解散させる直前に、エドワーズはこの事件に関わった可能性のある青年子女の名前を、被疑者と証人との間に何の区別立ても設けず、一挙に読み下したのである。一瞬にして教会員の間に感情の変化が起こった。町は一様に事件そのものを忘れ、牧師の取り扱い方に対する非難で沸きかえった、とホプキンズは記している。

教会員の道徳的規律という、普段なら何でもない事柄も、牧師個人に対する逆風の中ではとんでもない争論になるであろうことを、エドワーズは予感できなかったのだろうか。彼はあまりにも人間の機微に疎く、あまりにも世間知らずだったので、町の有力者たちの顔をつぶすようなことを平気でしてしまったのだろうか。――これまでの評伝ではこうした見方が支配的であった。しかし、今日も残るその問題の名前のリストと言われるものを検証すると、それが事柄の真相を反映しているかどうかは、やや心許ない気がしてくる。リストには、はじめに男子10名の名前があり、次に2人の医師、そして9名の女子と1名の男子の名前が続く。上下二つのグループは真ん中の医師の名前によって画然と仕切られており、耳で聞いただけでも誤解の余地がない。しかも、その中で「町の有力者」と言われる名前は一つだけである。委員会の記録にも、子女の親からの抗議や不満は何も記されていない。というより、彼らはそもそも親の庇護の下にある者ではなかったのである。年齢からすれば、主犯格は26才、男子10人の平均で24才という「大人」のグループであり、また職業からすれば、他の町から来た住み込みの徒弟 (apprentice) など、むしろ親の監督下にない連中であって、そこにこそ問題があった。エドワーズの失敗は町の有力者の子弟を被疑者と同列に扱った点にある、というこれまでの説明は、どうもしっくり行かないところが残る。

委員会は6月はじめに結論を出したが、それによれば、彼らの直接の罪状は「悪書」を読んだことではなく、「教会の権威に対する軽蔑的な言動」をとったことであった。そのことは、調査中の彼らの言動にも表れている。彼らは数人ずつのグループで委員会に呼び出されたが、順番を待つうちに退屈して、梯子を登って二階にいる娘たちのグループにちょっかいを出したり、牧師館の庭で馬とびを始めたり、しまいにはその場を抜け出して近くの酒場へ景気づけの一杯を飲みに行く、という始末であった。ある者は「こんなところで何をしているのだ、われわれはここで日がな一日待ってなどいないぞ」と公言し、あるいは「委員会の連中はみな泥かすでこねられた木偶の坊だ」と息まいたという。いずれにもせよ、この事件を通して、エドワーズの権威が特に若者たちの間で取り返しのつかないしかたで傷つけられた、ということは間違いない。それ以後の彼の牧会は、はなはだ不十分なものにならざるを得なかった。