「悪書事件」以後、1744年から1748年は、ノーサンプトン教会にとってまったく不毛の時であった。4年の間、一人も入会希望者が出なかったのである。あの信仰復興運動の旗頭に立った「丘の上の町」ノーサンプトンが、である。それは、輝かしい大覚醒を導いた指導者エドワーズから、わずか10年のうちに教会を追われて出てゆくエドワーズへの急転回を前にした、幕前の空白である。彼を取り巻く時代もまた、風雲急を告げていた。植民地は再びフランス軍とインディアンとの戦争状態に入り、町は要塞化され、各所に見張りやぐらが立てられた。エドワーズの説教にも、戦争のなりゆきを刻々と取り上げたものが目立つようになる。

エドワーズを辞任へと追いやった直接の論争は、教会員の資格に関するものであった。彼は以前から前任者ストダードの安易な入会審査方法に疑問を抱いており、教会の正会員になるには、正しい教理の知識や道徳的生活のほかに、救いの恵みがみずからのうちに働いたことの実体験を公に告白することが必要である、と考えていた。「教皇」ストダードは現実政治に長けた人間で、ノーサンプトンばかりではなく全コネチカットの教会の門戸を広く開放して大成功した牧師である。ニューイングランド教会は、すでに1662年には回心の恵みを経験していない者の子供にも洗礼を授けるという「半途契約」(Half-Way Covenant) の慣行を始めていたが、ストダードは77年にこれをさらに押し進め、未回心者にも陪餐を許可したのである。聖餐は彼にとり、「回心を促すための制度」(a converting ordinance) だったからである。おかげで教勢は大きく伸張したが、「見ゆる聖徒」としての教会の本質規定は薄められざるを得なかった。

(なお、近年しばしばわが国の教会でも「オープン・コミュニオン」という言葉を聞くが、上述したことから明らかなように、ニューイングランド教会史におけるそれは、洗礼は受けているが回心体験を告白していない成人が聖餐式に与ることであって、受洗未受洗にかかわらず誰でも自由に陪餐できる、という意味ではない。)

 

これに対してエドワーズは、陪餐も子供の洗礼も回心経験の告白をした正規の教会員だけに限られるべきだ、と考えていた。牧会をはじめた当初は、彼もストダード方式をそのまま踏襲したが、エドワーズの神学的良心はその再考を迫り続けていたようである。われわれの言葉で言い直すと、幼児洗礼を受けたが堅信礼ないし信仰告白をしていない者は正規の陪餐会員であるか否か、そしてその子どもは幼児洗礼を受けることができるかどうか、ということになろう。幸か不幸か、4年の間は入会希望者が出なかったので、問題が表面化しなかったが、48年もおしつまった12月、久しぶりに入会希望者が現われると、待ち構えていたように運命の歯車が回りはじめる。エドワーズは彼にいくつかの信仰告白のサンプル文を渡し、個々の言葉はともかくも概ねこのような告白をするように、という指導をした。敢えてノーサンプトン教会に入会を希望してきた人のことである、それができない、というわけではなかったであろう。けれども彼は、牧師に反感を抱く人々にそそのかされ、教会規則に規定がないことを理由に、これを拒否したのである。

 

明けて49年の2月、エドワーズは説教壇からみずからの方針変更を説明することを提案したが、反対派はこれを頑として拒絶した。そこで彼は同じことを文書で行うことにし、「もし教会員がこれを読んだ後もなお納得できない場合には、自分は教会を辞任してもよい」という念書を提出したのである。エドワーズにとっては大きな賭けであった。教会はこれを承認し、彼は綿密な準備を重ねてその年の夏に『教会入会資格についての謙虚な研究』を出版した。ところが、命運を賭けたはずのこの本は、なんと町でたったの20部しか売れなかった。実際に読んだ人はもっと少なかったかもしれない。反対派のある人は、その本が自分の家に入って来ることさえ忌み嫌ったという。それほどに町の雰囲気は険悪であった。エドワーズは、その年の暮れに親しい弟子に宛ててこう記している。     「私には一挙手一投足に神の助言が必要です。というのは、私の行いと言葉のすべてが町の多くの人々の厳しい眼差しに監視されており、私が何をしようと何を言おうと、みな暗い色合いで受け止められ、私の世評に墨を塗るようなしかたで解釈されるからです……」 翌1750年の2月から、エドワーズはこの問題を取り上げて5週連続で木曜講演を行なうことを提案し、承認された。ところが、前評判にもかかわらず、ふたを開けてみると、これまた出席したのは町の外の人が多く、彼自身の教会員はごく小数だった。もはや人々の心は動かし難く方向づけられていたのである。

当時牧師は教会連合の議決なしには罷免されることができなかったので、反対派はこの機会を逃すことなく例の「ハンプシャー連合」に特別委員会の招集を要請した。その年の春はこの会議のメンバー構成についての折衝で明け暮れ、その結果、エドワーズ側と教会側とがそれぞれ5つの近隣教会を指名し、その10教会それぞれに牧師一人と信徒一人の票を与え、計20票で投票する、ということになった。しかし、直前になってエドワーズ側が指名した教会の信徒が一人寝返り、欠席を通告してきた。一方、教会側が指名した教会の中には、前々回にこの欄に登場したロバート・ブレックとその教会が含まれていた。ブレックがエドワーズに抱いていた因縁は明らかである。もはや会議の結論は出たも同然であった。会議は1750年の6月19日から4日間にわたって行われ、最終日に評決が採られた。掲げられた議題は、「エドワーズとノーサンプトン教会との牧会的関係は解除されるべきか」と「それは直ちになされるべきか」の2点であった。投票は19人によって行われ、予測の通り10人が賛成、9人が反対。エドワーズは、一票の差で「直ちに解任されるのが適当である」と結論された。

この出来事を、権力主義的・貴族主義的な牧師階級に対する会衆の民主主義的な勝利と位置づけ、1776年のアメリカ独立革命に通ずるものであるかのように描き出すこともなされてきた。しかし、これは皮相な見方である。エドワーズに対立したのは、実際には民衆ではなく、寡占状態になりつつあった植民地経済の小数の覇者たちであった。そのことは次回に触れるストックブリッジの件でも明らかである。霊の支配を一掃すると、人は自由になるのではなく、別の支配のもとへと移るだけである。そしてその人の状態は「初めよりももっと悪くなる」(マタイ12章45節)のである。

委員会の提議を受けたノーサンプトン教会は、直ちに総会を開き、200対20の大差でエドワーズの解任を決議した。さきのブレックはこの教会総会にも陪席していたが、「長年みずからの牧師であった者を解任するのはさぞかし不本意なことであろう」と予測していると、議長が挙手による採決を求めた途端に、「あたかもバネ仕掛けのように」200本の手がさっと挙がった、と記している。