忘年会気分で出掛けた『形成』懇談会で、たいへんな宿題を負わされてしまったようである。帰国以来何か本誌に書くようにとお勧めを受けていたが、自分の論文の日本語訳を理由にお断りする他なかった。しかし今度は、「論文の註にも入らないようなエドワーズの『周辺』を書くのはどうか」と攻められ、さらに第一回は「なぜエドワーズか」で始める、という書き出しまで決められてしまった。まだ本業の論文訳出が遅々として進まないのに、その「周辺」が先に出てしまうのは何とも気がひける。しかし考えてみると、ジョナサン・エドワーズという人がいったいどのような人間であったのかは、おそらく神学論文という形式だけでは伝わらない部分も多いだろう。まして、日本においてその知名度はゼロに等しいエドワーズである。このような側面からの情報によって、少しでもエドワーズその人とその思想に興味を持つ人が増えれば、それは案外日本のエドワーズ学には大きな一歩となるかもしれない。そこまで言わずとも、伝記的な事実の紹介がその人の思想を紹介するのに先立ち役立つことは確かだろう。その機会が与えられるというのは、これは実にありがたいことである。

なお、「周辺」というとエドワーズ自身よりも家族や師弟や教会といったことが焦点になるような印象だが、それをも顧みつつ、やはりエドワーズ本人を中心に話を進めたい。そこで、標題は肩の凝らない「見聞録」程度にしておくのがよいかと思う。熊さん八つあんの視点からエドワーズの人となりを多少の人間的な暖かみをもって紹介し、そこから彼の神学の深みにある実存的な座を窺い見ることができればと願う。これでいったい何回位続くのか、全体の見通しを立てた上で書き始めるわけではないのでわからないが、とりあえず「10話連載」という心づもりで始めてみよう。

さて第1回標題の「なぜエドワーズか」という問いだが、実はこれだけで数回分の「見聞録」ができそうな気配である。まず私自身の目論見から述べてみたい。日本のプロテスタント教会の成立が19世紀アメリカの宣教に多くを負っているということは、誰もが認めるところであろう。今日のわれわれの教会を見ると、週半ばの祈祷会や定期的な伝道集会、信徒の積極的参加など、かつてのアメリカ・ピューリタニズムの伝統を反映した教会のプラクティスを認めることができる。祈祷会の習慣など、本家アメリカの主流派諸教会ではほとんど廃れてしまい、むしろわれわれの方がその伝統をよく守っている、などということすらある。しかしその割に、みずからの身体に浸透したこの伝統を神学的に反省するという作業は、これまであまりなされてこなかったのではないだろうか。日本では神学と言えばドイツで、そのために教会は頭と体が別々の由来を持つキマイラ的な存在になっている。神学のゲルマン捕囚からの解放は、長くわれわれの課題であり続けてきた。もっとも、それも理由のないことではない。豊かな知的・思弁的土壌をもったドイツの神学に較べて、アメリカで生まれる神学はもっぱら実践的で、どこか役者不足の感がある。今世紀に入り大西洋を跨いだ神学的交流が盛んになると事情は変わってくるが、それでもティリヒがどこかで述懐しているように、当時ヨーロッパからアメリカに行くということは、学問をする者にとっては荒野に行くにも等しい印象だったのである。

しかし、少し遡って18世紀のエドワーズになると、話は別である。辺境ということから言えば、彼は当時の知的世界からはあり得べきもっとも遠い地に生きた。ニューイングランドは定植後すでに一世紀を経ていたが、本国との知的交流は大西洋往復の船で何ヶ月もかかり、しかもその恩恵は実質上ボストン周辺に限られていた。彼のいたコネチカット渓谷はそこからさらに馬車で何日かというところである。アメリカ・ピューリタニズム全体を「荒野の実験」と呼ぶならば、彼こそはその荒野に咲いたもっとも独創的で神秘的な花である。エドワーズは、彼以前の神学を消化吸収しつつも、それ以前にはまったく存在しなかった独自な神学世界を創出したし、また彼以降の神学はそれぞれ部分的にこれを踏襲したが、結局はそうした独創性を全体として評価することも継承することもできなかった。したがってエドワーズは、ほとんど前にも後にも軌跡のない超絶した神学者としてニュー・イングランドの荒野に忽然と現象するのである。それは、周囲から隔絶された知的辺境ないし周辺にあった故にこそ可能だったことなのかもしれない。

しかし、そればかりではない。辺境で偏狭な(うまい!)思索に耽ることなら誰にでもできる。彼の神学は、単に独自で孤高であるだけではなく、まさにその独自性においてもっとも普遍的なものを体現している、という点にその本質的な意義がある。それは、ピューリタン神学や広く改革派神学の本流に根ざした神学であるばかりではなく、宗教改革者たちの本来目指した聖書的かつエキュメニカルな神学の課題を正面に見据えつつ、さらに遠く初代教会のギリシア教父たちや、場面によっては東方教会の神学的関心とも深く呼応するものを持っている。私の学位論文も、このような彼の神学のもつエキュメニカルな意義の一端を探る試みである。彼の思想はまた、感性的・美学的なものを扱うことに卓越しており、文学や修辞学からの研究も多くなされている。さらに、エドワーズといえば「ロックの経験論とニュートンの物理学の上に鋳直された神学」と評されてきたように、哲学や科学史にも面白い研究材料を提供するし、彼なくしてはアメリカの独立はあり得なかったとする政治学や思想史の見解もある。

したがって、「なぜエドワーズか」という問いに対するさしあたっての答えは、第一にはエドワーズが日本のプロテスタント教会の伝統を神学的に反省するための格好の材料を提供するから、第二にはそのなかでも彼こそはがっぷり四つに組んで取り組むに値する最大の神学者・思想家だから、ということになる。次回は題を「なぜ今エドワーズか」というふうに仕切り直して、この二点をもう少し掘り下げてみよう。