さてこの「見聞録」、第2回は「なぜ今エドワーズか」とういう題になるはずであったが、その前に順序としてひとこと、アメリカでエドワーズがどのように読まれているかについて紹介しておきたい。

前回ふれたように、エドワーズの思想は単に神学のみにとどまらず、哲学、科学史、文学、政治・社会思想史などなど、さまざまな分野において研究されている。その幅広い需要に応えるために、1957年からイェール大学出版会は決定版となる「エトワーズ著作全集」の出版を開始した。これは総数でおそらく30巻を上回ることになろうが、いずれも専門の研究者による学問的な校訂を経て出版されており、信頼できる一次資料となっている。現在のところそのうち9巻が出ているが、まだ彼の思想の「奥の院」とも言うべき自筆研究ノートや膨大な量の説教原稿などは末発表のままに眠っている。すでにエドワーズの著作集は没後数回にわたって編集・出版されているが、学問的な使用に耐える最後の全集は19世紀半ばのもので、まだイェール全集に入っていないものはこれに頼るほかなく、それもきわめて選択的な部分に限られる。

二次資料については膨大なものがある。研究論文や著作も年ごとに増え続けており、エドワーズ専門の文献目録もいくつか出版され、また「アメリカ宗教学会」では「ジョナサン・エトワーズ・コンサルテイション」という分科会ができている。一方、エドワーズの伝記といわれるものは、神学的・思想的なものから通俗的なものも含めて、筆者が実際に手にしたものに限っても14種ほど出版されている(最近10年問にも2冊出た)。死後既に二百数十年近くを経てなおこうした伝記が出版されるというところに、エドワーズらしいものがある。筆者はかってノーサンプトンというエドワーズゆかりの地を訪ねたことがある。当然のことに、彼のことを詳しく知る人はその町でも彼の牧した教会でもけっして多くはない。しかし、その彼を知る人々は、彼を「エドワーズ」などとは呼ばない。「ミスター・エドワーズ」と呼ぶのである。まるでいまだに生きている人を呼ぷときのように。ついでに言うと、「仮想インタヴュー」などという文学ジャンルはこの頃でこそ珍しくなくなったが、そんなことが一般的になるよりずっと以前に、エドワーズの亡霊を呼び出してまじめ半分おもしろ半分に対話したものもある。エトワーズの家系については後に取り上げるが、今世紀初頭までに彼の子孫に大学の学長や大会社の社長や合衆国副大統領が何人出た、などという好事家的な追跡調査もある。エドワーズには何かよほどそういう興味を起こさせるものがあるのだろう。生前の彼の人生も繰り返し伝記を書きたくなるような劇的な(もっぱら悲劇の方だが)人生であった。

もっとも、こう言ったからとて、平均的なアメリカ人がエドワーズのことをよく知っている、というわけではない。彼とよく比較される三つ年下のベンジャミン・フランクリンに較べれば、その知名度はせいぜい教界や学界に限られている。それ以外の一般の人がエドワーズの名前を聞いて思い出すのは、罪人が陥る恐ろしい地獄の様子を描写したあの有名な「エンフィールド説教」である。自分がもっぱらこの説教で記憶されていることを知ったなら、エドワーズはきっとたいそう残念に思うだろう。これもこの「見聞録」で一度は取り上げなければならないテーマかもしれない。

さて、このようなエドワーズの思想の評価は、通時的に見てもけっして一様ではない。まず彼の没後すぐの評価は、弟子たちを除けばおよそ芳しくなく、将来のこうした人気を予想させるものは何もない。しかし、時が経って彼の思想が思想として読まれるようになると、復興が始まる。19世紀半ばまではその復興の第一期である。この期間に彼の著作が全集や単行本で数多く出版され、神学の面でも小粒ながら後継者といわれる人々が出た。その後19世紀後半から今世紀初頭までは、エドワーズ評価がもっとも低かった時代である。それは単にエドワーズに限らず、ピューリタニズムという現象そのものに対する拒否感をあらわしているであろう。エドワーズは、ありあまる才能を持ちながらそれを厳格なカルヴィニスト神学という誤った課題追求に浪費した非合理で非寛容なアナクロニズムといわれた。

興味深いことに、こうしたエトワーズ評価の変動は、実はアメリカ社会の全体的な自己理解の変動を微妙に反映させている。南北戦争を終えてアメリカが政治的・経済的な安定成長期に入ると、エドワーズ評価は下降の一途を辿り、彼は上述のように時代錯誤と非寛容の典型として拒否される。しかし、今世紀に入り大恐慌と戦争の時代が来ると、彼の語った辛口の真理が見直されてくる。J・ハルートゥニアンがエドワーズにバルトの新正統主義にもまさる「神中心的」な神学を見いだしたのが大恐慌直後の1931年。H・R・二ーバーが『アメリカにおける神の国』でエドワーズに実存の深淵を直視するキルケゴール的な神学者を見たのが1937年。さらにペリー・ミラーの歴史画定的な思想史的伝記が出たのが第二次大戦直後の1949年である。その後公民権運動やヴェトナム戦争などでアメリカが傷つくたびに、エドワーズは思い起こされ、その評価は上がっていった。エドワーズは、いわばアメリカン・マインドの幼少期における原体験なのである。このアメリカン・マインドは、日中健康で繁栄しているうちはそれを笑い飛ばして無意識へと葬り去っておきたいのだが、不安や罪責感情に苛まれる黄昏になると、精神科医のセラピーのようにこの原体験を想起し、人間と社会の罪の現実を仮借なく明るみに出しつつもなおそれを無限の優しさで包み赦す彼の福音の使信に耳を傾けるようになるのである。エドワーズが聞かれるのは、常にこのような「アメリカという社会的人格」の魂の深みにおいてである。

逆に言えば、今日のアメリカがどのような自己理解をもっているかということも、あるいはエドワーズが今どのように読まれているかということから推し量ることができるのかもしれない。アメリカはいま、湾岸戦争の勝利と東欧・ソ連の崩壊によって、自由主義世界のみならずほとんど全世界的な思想的覇権を握ったかに見える。しかしその割にエドワーズは読まれ続けているようである。