前回は「タトル事件」を取り上げた。エドワーズにはその暗い血の系譜も呪力を及ぼしていないということを述べたが、ただエドワーズの父ティモシーにとっては、影響はもう少し直接的だったかもしれない。1669年に生まれた彼は、青年時代を両親のこの離婚裁判の渦中に過ごしたからである。彼は、法廷で母の姦淫行為について証言しなければならなかったし、嫡出の長子として正式に親子関係の廃絶も行わなければならなかった。これらのことは、彼の人格形成や牧師としての資質にどのような刻印を残したのだろうか。そして、やがて始められたイーストウィンザーの牧師館での生活は、その子ジョナサンにとってどんな職業教育の場となったのだろうか。
ティモシーの話をもう少し続けよう。彼は家業を離れて聖職者となるべく、当時の慣例であったように、早くから別の町の牧師のもとに寄宿して勉強を続け、やがてハーヴァードに入学した。卒業予定年度は1691年であったが、実はこれがちょうど父母の離婚成立の年にあたる。その影響もあってか、彼の実際の卒業はさらにその3年後であった。奇妙なことに、彼はその年7月4日の午前中に学士号をもらい、同日の午後に修士号をもらっている。この事実を解釈するに、以前は彼の学業成績がとびぬけて優秀だったから、という説明がなされた。彼が優秀な知的才能をもっていたことは確かであるとしても、最近の発見によれば事情はいま少し複雑かもしれない。ハーヴァードの1688年前期の「学生厳罰処分簿」に、「ティモシー・エドワーズ」の名が記載されているからである。それがどういう種類の違反行為であったのかは、もはや知る由もない。しかし、彼の学位授与が遅れたのはこのことによる停学処分と無関係ではなかっただろう。父ティモシーの青年時代は、けっして波風のない優等生のそれではなかったのである。彼の名は、1694年の卒業生名簿の最後に記されている。
さてしかし、エドワーズ家をめぐる例のいわゆる「ガイコツ」は、これで打ち止めである。残念ながら、われわれが耳をそばだてるこの手のスキャンダルは、この後はティモシーにもその他の親戚係累にも見つかっていない(もっとも、後年エドワーズの孫で副大統領になったエアロン・バーは、「全米的なスキャンダル」と言われる資格があるかもしれない)。ティモシーは、卒業するとその年の11月に既述のエスター・ストダードと結婚し、8日後には馬車に乗ってイーストウィンザーの町に赴任した。当時ウィンザーから独立したばかりのこの町には、まだ組織された教会があったわけではなく、会堂も牧師館もなかった。町はその後当局からニューイングランドで129番目の教会となるべく正式の許可をもらい、4年後にようやくこの町最初の牧師として彼の按手礼と就任式を行った。牧師館の建築費用は再婚した裕福な父リチャードが工面し、労働は町の教会員が提供した。できあがった牧師館はけっして大きくはなかったが、コネチカット渓谷を前景に望むしっかりした造りで、19世紀はじめまで使われていたという。なお、ついでに言うと、彼が按手礼を受けたときには、ラムやブランディもふるまわれ、ダンス会もあったと伝えられている。本物のピューリタン達は、ときにわれわれが彼らを押し込めたいと思う「ピューリタン」という枠には入りきらないようである。
父エドワーズの牧会には、けっして人目を引くような魅力はなかった。その説教も、ただひとつの選挙日説教を除き、印刷に付されたものはない。人によっては、牧師としての彼の生涯はあまり幸福ではなかった、と見る。彼は自分のもらう謝儀について慢性的に不満をもっており、息子のジョナサンがイェール大学に入学した年には何かと物入りだったのだろう、そのために辞任すると脅してまで昇給を勝ち取らねばならなかった。その他にも彼は、教会員が道で出会っても帽子をとって挨拶しない、などということで少なからず傷つき、説教でもっと牧師を尊敬するように訴えた、などという話も残っている。こうした父ティモシーの屈折した感情のひだを家庭で身近に見ていた少年エドワーズの眼に、牧師という職業はどのように映ったことであろうか。あるいはそれが、牧師の生活は教会員との覇権争いと軋轢の連続であるという認識を植え付け、後にみずから経験することになる教会員との衝突へと精神的な道備えをした、と言えるのかもしれない。
しかし、前回の「タトル事件」同様、このことについても私自身はあまりそういう解釈をとる気がしない。なんだか少々身につまされる話になってしまったが、ニューイングランドでは牧師が給与のことで教会員といさかいを起こすのはけっして希なことではなかった。そもそも謝儀が一定の金額に決まっているということが少なかったし、それも薪や農産物などの現物支給であったりして、それが約束通りに牧師館に運び込まれると常に期待できるわけでもなかった。また、牧師が牧師としての正当な尊敬を払われないで悩むというのも、当時の一般的な構図であった。牧師職は専門の高等教育を要する唯一の職業で、入植当初こそ高い社会的認知を受けていたものの、その精神的権威は抬頭しつつあった中産階級にはもはや自明のものではなくなりつつあったからである。
換言すれば、いつの時代でもどこの国でも、牧師稼業には物質面・精神面ともに苦労がつきものだ、ということである。そういう葛藤をもちつつもしかし、ティモシー・エドワーズはその地に留まり、淡々と牧会を続け、何と64年の長きにわたって、死ぬまでそこの牧師であり続けた。このことはけっして軽いことでない。たとえニュー・イングランドではそれが普通だったとしても、64年の長きにわたって大過なくひとつの教会の群れを牧するというのは、人間的な言い方でも並大抵のことでないだろう。息子の光彩からすれば、それは凡庸かもしれない、きらきら光るものはないかもしれない。しかし、それでも教会裏にあるティモシー・エドワーズの墓碑銘には、「成功した福音の教師」と刻まれているのである。ジョナサン少年に牧師職のよいロールモデルが欠けていた、と言いたがる伝記もあるが、それは牧師という務めの困難も光栄も知らない者の興味本位の憶測に過ぎない。
われわれのエドワーズは、父ティモシーとは才能も性格も異なっている。長じて後も息子を自分の影響範囲においておきたいと思う父は、多少うっとうしくもあったであろう。しかしエドワーズは、終生この父に尊敬を尽くし、事あるごとに話し合い、変わることのない親愛な情を持ち続けた。あたかもそれを証しするかのように、子は父が世を去ったのと同じ1758年に、ふた月と遅れることなく天父のもとへと帰っている。