エドワーズは、1703年の10月5日に生まれた。11人の子供のうち5番目だが、なんと男の子は彼一人だけだった。エドワーズ家はみな背が高かったので、町の人々は彼以外の10人の娘を合算して「60フィートの娘たち」と呼び慣わしたほどであったという。多分に誇張も含まれているであろうが、もし10人の娘全員が6フィート(180センチ)近くあったとすると、小さなニューイングランドの家の中は、まるで林のようになってしまったことだろう。ただし、そのためにエドワーズが幼年時代から女の子のように育てられ、女の子の遊びしか知らなかった、と決めつけるのはあたらない。牧師館にいちばん近い家には父方の従兄弟たちがおり、そうでなくとも町には同年輩の男の子がいて遊ぶには事欠かなかったであろうからである。
エドワーズの少年時代を知る直接の手がかりはあまり多くない。彼自身が後に回想したところによれば、彼はすでに10才になるかならないかの頃、「宗教について、また自分の魂の救いについて」深い関心をもち、一日に5度祈り、密かに学友と沼地の林の中に「祈りの小屋」を建てたという。きわめて宗教的な感受性の強い少年だった、と言えるだろう。しかし、それを言っただけだけではこの「見聞録」の名がすたる。
当時のジョナサン少年の生活を窺い知る数少ない手だてのひとつに、父ティモシーの手紙がある。1711年、エドワーズが8才の時、ティモシーはフランス系カナダへの侵攻を企てた植民地軍にチャプレンとして同行したが、その時彼が家に向けて書いた手紙が2通ばかり残っているのである。そこには、愛する妻への細々とした家政の指示や、旅で知った親類の消息などとともに、特に息子の教育について、次のように記されている。「ジョナサンが無作法で腕白すぎる子に育たないよう、特に注意して欲しい」――われわれはエドワーズというと、あのかつらをかぶった上品な細おもての紳士というポートレイトを思い出すが、少年時代にはやはり腕白で父を心配させる普通の少年という一面ももっていたようである。ティモシーはまた、多くのニューイングランドの牧師がそうであったように、父であると同時に教師でもあり、ジョナサンの初等中等教育の監督者でもあった。彼は、同じ手紙の中で、自分の留守中にジョナサンがこれまで習い覚えたラテン語を忘れないように、「姉たちに何度も反誦させ、また妹たちには自分が習ったところまでを教えさせるように」という宿題を課している。
一方、エドワーズ自身の書いた少年期の手紙も何通か残されている。そのうちの一通は、1716年5月10日付(12才)のもので、史料的に年代確定のできる最古のエドワーズ自筆文献でもある。手紙は、寄宿学校に行っていたすぐ上の親しい姉メアリに宛てて書かれており、「神の素晴らしい恵みと善とにより、この地に神の霊の注ぎがありました」と始まって、その日父の教会に加入した人々のプロファイルをずらりと紹介している。すでに12才にして後の大覚醒運動の指導者たる面目を現している、と見ることもできよう。
しかし、やはりそればかりではない。手紙の終わりは、いかにも少年らしいあどけなさで家族の便りをこんな風に記しているのである――「アビゲイルとハンナとルーシーはチキン・ポックス(水疱瘡)にかかりましたが、もう治りました。いまちょうどジェルシャがかかっていますが、もうほとんど元気です。僕はときどき歯が痛くて困っていますが、ここ二・三日は大丈夫です……」あのしかつめらしいエドワーズが、水疱瘡のプツプツを顔に浮かび上がらせ、あるいは歯痛で頬を腫らしていたなど、想像するだけでも愉快ではないか。この手紙は全体としてスペリングも文体表現も幼く、実に12才の子どもらしい文章で綴られている。エドワーズを天才的な神童に祭り上げるのもよいが、その彼にも尋常な少年期があったということを知ってほっとするのは、私だけではないだろう。天上の本人は案外苦笑いをしているかもしれない。
総じてエドワーズは多くの「神話」に包まれた思想家である。特にその早熟な知的才能については、19世紀以来多くの神話が創られた。10才か11才の時に「魂について」という皮肉に満ちた魂物質論の反駁を書いたというのも、また12才の時に透徹した自然観察と経験的・分析的な手法による「蜘蛛」論文をものしたというのも、あるいは12才でイェールに入った彼が、当時大学の図書館にあったロックとニュートンの著作を次々と読みこなしてこれを神学の近代的な再建の資としたというのも、みなこうした神話の一部である。しかし、近年の批判的考証によれば、これらのうちで史実として維持できるものは多くはない。例えば、彼の天才ぶりを示すもっとも顕著な証拠としてしばしば用いられた「蜘蛛」論文は、1829年版のエドワーズ全集の編集者シリーノ・ドワイトにより「12才以前の作品」とされたが、そのドワイトの判断の根拠たるや、エドワーズがその前文で自分のことを「子ども」と呼んでいるので、大学入学以前であろうという、きわめて牧歌的なというか、ずさんなものであった。ところがこれは、その後ごく最近になってロンドンの王立科学アカデミーに送られた手紙の写しがニューヨークの歴史協会で発見されたり、その下敷きとなった「昆虫について」論文のスペリングや筆跡などの鑑定作業がなされたりするまでは、誰もが証明済みの事実のように受け取っていたのである。
いったいに、年代誌の作成というものはエドワーズに限らず常に困難を伴う作業であろうが、前世紀以来のこうした多くの神話に包まれている初期エドワーズの著作を文献批判的に系統立てて整理するのは特に困難を伴った作業である。それには、彼の思想内容の全体に精通していることはもとより、彼の用語の特徴やスペリングの癖、さらに周辺の知的世界や同時代の出版物の動向などについても知悉していることが必要である。これらに加えて、エドワーズのほとんど暗号のような細かい筆跡を解読し、何重にもわたる後代の加筆からオリジナルを復元し、さらに、使われているインクや紙のすかし商標までをも分析鑑定するといった、職人芸的な考証作業を重ねなければならない。これらすべてが総合的に勘案されてはじめて、実際の執筆年代を特定し彼の思想的発展をあとづけることが可能になるのである。エドワーズ研究は、こうした地道な文献学的検証を経て、ここ数十年でようやく本格的な学問研究の準備が整いつつある、というところである。
次回は、エドワーズのイェール時代を振り返りつつ、彼とロックやニュートンとの関係を取り上げてみよう。
『形成』No. 261(1992年9月号)22-23頁