エドワーズは1716年の9月、13才になる少し前にイェールに入学した。当時、初等中等教育はまだ制度として整っていたわけではなく、文法や語学などの基本的な準備ができ次第、直接大学に入学する慣わしであったので、12才で大学生というのはそれ自体では特別例外的なことではない。彼は1720年には学部を首席で卒業し、その後ニューヨークの長老派教会からの招聘を受けるまで、さらに2年間イェールに留まり、勉学を続けた。ニューヨークでの生活については、彼の日記以外にほとんど客観的な記録がない。この任務は1年足らずで終わり、1723年の春に彼はイェールに戻り、同年9月に修士号を得て、翌24年の5月からは講師として働きはじめた。

彼の修士論文は私も見たことがあるが、ラテン語で書かれた30頁にも満たない短いもので、「信仰義認」を扱った神学論文である。なお、この修士号が彼の最終学歴であって、エドワーズ学で「ドクター・エドワーズ」といえば同名の息子「ジョナサン・エドワーズ・ジュニア」のことであるので注意されたい。(ただしこの息子、学問の深みにおいては到底父に及ばず、いつの世でも博士号などとというものは実力とはあまり関係のないものだということのよい例証になっている)。

ところで、エドワーズの父ティモシーがハーヴァード出身であることはすでに述べたが、エドワーズはなぜ父と同じ大学でなく新設のイェールを選んだのだろうか。

ハーヴァードは、マサチューセッツ湾植民地がはじまって後わずか数年にして創立された最初の大学であり、半世紀以上にわたって植民地の高等教育を引き受けた文字どおり唯一の大学であった。ハーヴァード設立の直接の動機は、牧師人材の確保である。ニューイングランドの人々は、牧師を育成するのに大西洋の向こうの英本国に頼らねばならず、このままでは「現存の牧師たちが没した後には植民地には学識のない牧師ばかりになってしまう」という危惧におそわれたのであった。もちろんハーヴァードの教育内容は、創立当初から狭義の神学教育に限定されていたわけではなかった。しかしそれは、ペリー・ミラーが論じたように、「学識を前進させる」というその一般教育自体が、ニューイングランドに対する神の目的を達成するための不可欠のプログラムの一つと考えられていたからに他ならない。1643年に本国のピューリタンに宛てて書かれたハーヴァードの紹介文によれば、「学識を前進せしめること」は、「家を建て」「暮らしをたて」「礼拝堂をつくり」「市民政府をうちたてる」ことの次に来る、神の目的実現の重要な一段階なのである。

しかし、このような神的計画の実現に参画しているという創立者たちの目的意識は、やがて法律や医学などの実学の発展によって薄められてゆく。そのことを象徴するかのように、1701年にはニューイングランド・ピューリタニズムの代表的人物ともいうべきインクリース・マザーがハーヴァード大学総長の地位を追われるように辞任する。そして、奇しくもこの同じ1701年が、「コネチカット大学」すなわちイェールの創立の年なのである。イェールは、ハーヴァードがピューリタンの正統的な信仰をはずれて自由主義に堕しつつあることを憂えた人々の支持と期待を受けて出発した。大学の憲章によれば、その学長の務めは、一日に二度祈ること、日曜日には実践的な神学を講ずること、「ウェストミンスター信仰告白」に忠実であること、もって宗教の力と純粋性を促進せしめ、ニューイングランド諸教会のために最高の訓育涵養を提供すること、などが含められている。

したがって、ティモシーが息子の教育にハーヴァードでなくイェールを選んだことには、それなりの歴史的背景があったと見てよいであろう。後にはこのイェールも、ハーヴァードと同じように堕落したと考えられるようになり、それを危惧した保守派の人々がプリンストンを建てる。エドワーズは晩年にその学長となるので、いわばアメリカのアイヴィー・リーグの変遷をみずからの人生航路で体現したことになる。

しかし、エドワーズが入学した頃のイェールは、実はまだその運営基盤も確立していないうちにいくつかの難問に遭遇した、たいへん脆い大学であった。難問の一つは、大学の所在地である。まだイェールという名前すら決まっていなかったこの若き大学は、まるで旧約時代の幕屋のごとく、安住の地を求めてコネチカットの荒野をさまよい続けていた。当然のことながら、テューターと呼ばれる常勤の講師たちはみな現職の牧師であったので、学生たちはその教師の牧する教会の所在地に(あるいはその牧師館内に)居住して講義を受けた。その結果、エドワーズが入学した1716年には、セイブルック、ニューヘイヴン、それにウェザースフィールドの三カ所が有力なテューターを抱え、「自分の教会こそ大学の首座となるべきである」と主張して譲らない、というありさまだった。

エドワーズは、入学すると数週間も経たないうちに、他の九人の学生と共にウェザースフィールドに移ってしまい、大学理事会がその直後にニューヘイヴンをキャンパスとするという最終決定をしたときも、これを無視してそこに留まり続けた。明らかにこれは、その地のテューターであるエリシャ・ウィリアムズ牧師を擁してのことである。このウィリアムズは、エドワーズにとっては9年年長の従兄弟であり、彼自身がハーヴァードを出てまだ5年経ったばかりであったが、古典教育では定評があった(後に彼はイェールの総長にもなる)。この町は、エドワーズの生家のあるイーストウィンザーからほんの10マイルしか離れていない。エドワーズはそこに3年次まで留まり、おそらく1718年9月の卒業式に際してエリフ・イェールの寄贈に対する盛大な記念会がニューヘイヴンで開かれたときも、それには出席せず、それに勝る聴衆を集めたといわれるウェザースフィールドの方の対抗卒業式を見ていたであろう。

その後市議会の融和策によって、エドワーズらは一時ニューヘイヴンに合流したが、そこのテューターであるサミュエル・ジョンソンを不服として、すぐにまたウェザースフィールドへ戻ってしまった。理事会は結局このテューターを解雇し、別の学長を据えることによって、翌年6月にようやくイェールはニューヘイヴンに落ち着いたのである。エドワーズはこの学長交代劇について、姉のメアリに宛てた手紙の中で、非常な満足を表明している。