前回は、イェール時代のエドワーズを振り返り、ロックとニュートンの影響を論じるつもりが、当時のイェールの状況説明で思わぬ道草を食ってしまった。
さて、エドワーズというと、ペリー・ミラー以来「ロックの経験論的認識論とニュートンの近代物理学のうえに鋳直された神学」と評されるのが常であったことは、この「見聞録」第1回でも触れたとおりである。しかし、ミラーはエドワーズに思い入れるあまり、彼をミラー自身の「近代性」概念の中へ読み込みすぎており、近年このキャッチフレーズも綿密な再検証の対象となっている。エドワーズがロックやニュートンに代表される近代科学の思惟様式や成果を大胆に取り入れて神学の資としたことは確かであるとしても、それによってエドワーズの思想の最終的な意義が量られるというものでもなく、まして「近代的である」ということ自体が担う価値判断は、第二次大戦直後のミラーと「ポストモダン」時代?のわれわれとではかなり開きがあるのも事実である。
そもそもエドワーズがロックとニュートンとを耽読したという「神話」は、彼に最も近い二人の弟子のうちの一人であるサミュエル・ホプキンズに由来している。彼は当時の学生の慣わしに洩れず、ノーサンプトンの牧師館に住み込んで起居をともにしつつエドワーズの神学を肌で直接に学びとった人物である。その彼がエドワーズ没後すぐに書いた最初の「エドワーズ伝」の中で、晩年の師自身の回想として次のように記録したのであってみれば、その信憑性に疑問をもたれることがなかったのも無理はないであろう。すなわち、エドワーズは大学の2年目(13才)にイェールの図書館ではじめて『人間悟性論』を見つけ、「もっとも貪欲な金鉱堀りが新しく発見された宝の山から金銀を両手にすくい上げた時よりもさらに大きな満悦と喜びをもって」読みふけった、と。しかし、実際にエドワーズがロックの著作を手にしたのがいつかという問題については、この回想文に信頼することは困難である。エドワーズの回想が細部に至るまで正確だったという保証はないし、あるいはホプキンズ自身の意図せざる脚色も多少は含まれているかもしれない。
ロックの著作が最初に大西洋を渡ったのは、1717年のことである。この年ジェレマイア・ダマーが発足間もないイェール大学のためにイギリス本国で大量の図書を購入して送ったが、その中には1690年版の『人間悟性論』第1版が含まれていた。しかし、年代決定のできるエドワーズの著作を見る限り、彼が直接これに触れた形跡はない。エドワーズは学生時代から自分が購入したい本ないし読みたい本のリスト(「カタログ」と呼ばれている)を作っていたが、ロックの『人間悟性論』は、1724年になって彼がニューヨークの牧会から帰る時になってはじめてこの「カタログ」に加えられている。それと呼応するように、同年彼の文章にロックの名前とその影響が現れるが、それも特にロックの同書第2版にはじめて加筆された章に言及しているところから、ダマー文庫に含まれていた同第1版には触れていなかった、という可能性が高い。
ただし、それ以前の学生時代にも、彼がロックの認識論の用語や議論に間接的に触れたことはあったはずである。論文「原子について」では、固性 (solidity) や実体 (substance) の概念の論議において、また『研究ノート』初期断片のうちには、信仰を複合観念 (complex idea) の一種とする議論において、間接的ではあるが見紛うことのできないロックの影響があるからである。しかしその場合にも、この時期の彼の読みはあくまでも浅く散発的で、ホプキンズの回想文が伝えるような興奮と組織的な研究を思わせるようなものはない。エドワーズはむしろ、いくつかの重要な点でロックとは反対の立場にあるとすら言える。
ニュートンについても、同様のことが言えるであろう。ダマー文庫は、1706年刊の『光学』と1713年刊の『プリンキピア』第2版を含んでいたが、エドワーズがこれに目を通したという確証はない。前回触れたように、エドワーズは発足間もないイェールのキャンパス決定問題をめぐる対立のために、卒業論文を書く時期まで他の数人の学生と共にウェザースフィールドに留まっていた。ダマー文庫はようやく1718年にニューヘイヴンで開梱されて収容されたので、エドワーズがそれ以前に直接ニュートンを読んだという可能性はきわめて小さい。
これまでエドワーズが早い時期にニュートンを知っていたという主張の根拠として、「昆虫について」という論文の中にある「光の内曲」への言及が挙げられてきたが、こんにちではこれがおそらくウィリアム・ウィストンという二次資料からの知識であることがほぼ確実とされている。彼はこの中で一貫して “incurvation” という用語を用いているが、これはニュートン自身の著作には現れない(ニュートンは “inflection” を使う)言葉であり、かつウィストンらの解説書に頻繁に用いられている用語だからである。エドワーズのいま一つの論文「虹について」は、やや詳細にニュートンの光学に触れているが、その言及の仕方もなお皮相的であり、全体の論調はむしろデカルト的な合理論の様相を示している。
なお、エドワーズの上述「カタログ」には、おそらく彼が1722年にニューヨークに赴任した頃に記されたと思われる項目として、ニュートン自身の著作(『プリンキピア』と『光学』)とウィストンの解説書とが共に載せられている。エドワーズのニュートンに対する関心はその後も続き、彼が1726年秋にノーサンプトン教会に赴任した後には、さらにパンパートンのニュートン哲学解説書(1728年刊)を購入して読み、ときにこれから引用もしている。
いずれにもせよ、エドワーズのニュートン理解は、彼がニュートンの著作を直接読んだ場合にはかなり限定されたものとなる他なかったであろう。イーストウィンザーの牧師館で受けた彼の初等中等教育は、当然のことながら、ニュートン理解に必要な数学の知識を提供しはしなかったからである。しかし、それにもかかわらず、エドワーズはニュートンの『光学論』(1706年ラテン語版)末尾の「疑問」に表明された重力の概念に、従来の機械的な衝突の力学からの革命的な変革の意義をはっきりと見て取っている。