1729年の2月16日、厳寒の聖日の朝、25才とすこしのジョナサン・エドワーズは、ノーサンプトン教会の説教壇への階段をゆっくりと踏みしめてのぼっていった。彼の前には、いまや彼自身の会衆となった多くの人々がじっと彼を見つめて会衆席を埋め尽くしている。人々はほんの3日前に前任者のソロモン・ストダードを葬ったところであった。これまでストダードとエドワーズはまる2年にわたって共に牧会したが、ストダードの死去に伴い、いま会衆は最終的に自分たちの主任牧師となったこの若いエドワーズを講壇に迎えようとしていたのである。既述のようにストダードはエドワーズの母エスターの父であるから、彼は母方の祖父と共同牧会をしたということになる。

ペリー・ミラーはそのエドワーズ伝の第1章を「後継者のトライアル」と題しているが、まことに適切である。エドワーズが受け継いだのは、単にひとつの地方教会の講壇ではなかった。それは、ひとつの帝国であり、その牙城であり、付随するプレスティージであり、全ニューイングランドに聞こえた強大な教会的権威であった。エドワーズは十分な実力をもってみずからに課された多くのトライアルをくぐり抜け、名実ともに内外に認められたストダード帝国の後継者を襲名したのであった。しかし、ここでもそれは事実の半分である。彼が受け継いだものは、時代の流れの中で、老いゆくストダードの手の内にあるうちに、はや腐臭を放ち始めていた。ストダードにはすべて自明なことであった強大な権力構造は、エドワーズには異質なものであった。もはや牧師の一声で社会全体が動くという時代は過去のものとなりつつあったのである。ストダードはそういうみずからの時代を握りしめたままに葬られ、おそらく23年後にエドワーズが教会を去るときにも、墓の中から隠然とその臭気をたちのぼらせた。

伝えられるところによれば、ストダードはノーサンプトン教会の招聘を受けた時、英国へ渡ろうとしていたという。クラレンドン法の牛耳る時代である。インクリース・マザーのように英国から逃げ帰って来る人はあっても、すき好んでそこへ乗り込む人は少なかった。どうやらストダードは、豪放な商人であった父の職業こそ受け継がなかったが、その意気軒昂な精神は牧師となっても受け継がれたようである。ノーサンプトンの牧師銓衡考委員会の指名を受けた彼は、その行動力をもって東の大洋ではなく西の荒野へと出帆していった。

当時ノーサンプトンは、馬車でボストンから3日はかかる道のりである。直線距離ではそう遠くないが、人々は難儀な山路を避けるために、まず海岸沿いにニューヘイヴンまで下り、そこからコネチカット川を遡ってようやくたどり着いたものであった。植民地第一の大都会ボストンに較べたら、それは奥のそのまた奥の田舎であり辺境である。しかしまさにそのゆえに、ストダードにとってそれは、みずからの力を存分に試すための絶好の地であった。彼は、後に「コネチカット渓谷の教皇」とあだ名されつつ、59年の長きにわたってその地に君臨した。偉丈夫で、不在の時を除き、死の直前も含めて一度も説教をしなかった日曜日がない。彼は、コネチカットの辺境から、ニューイングランドの教会史に不動の地位を保っていたマザー王朝に対抗し得る力をもった、ほとんど唯一の人物であった。

「教皇」ストダードは、ほぼ毎年ハーヴァードの卒業式に招かれて式辞を述べ、ボストンの「木曜定例講演」にも何度となく招かれた。後にボストンとノーサンプトンを東西に結んで、馬車の通れる広さの道が敷かれた(現在のマサチューセッツ州道9号)が、それは、たび重なる自分のこうしたボストン行のために、彼が田中角栄ばりの政治力を発揮して造らせたものである。その道を通って、彼の影響力は中央へと伝搬していった。彼は、ボストンからの帰途には必ずエスター夫人に干し葡萄やアーモンドやチョコレートをどっさり持ち帰ったという。なかなか愛妻家の教皇でもあった。

ストダードには、アン女王戦争時代のこんな逸話が残っている。ある日、彼が馬上瞑想のうちに悠々と野原を進んでいるところを、フランス人とインディアンの伏兵が見つけた。フランス兵が銃を構えて撃とうすると、脇にいたインディアンの一人がいきなりそれを振りのけて、たしなめるように言った。「あそこを行くのはイギリス人の神様だぞ。」

もっとも、このイギリス人の神様、命を助けてもらったとはつゆ知らず、自分の方ではインディアンにあまり恵みを垂れなかったようである。彼はインディアンを「盗人・人殺し」と見ており、「狼のような連中は狼のように扱うのが適当である」と言って、犬を使った「インディアン狩り」を提案しているほどである。この時代の白人入植者の限界であろう。エドワーズも、そういう時代の共通認識から完全に自由であるわけではない。しかしエドワーズは、後にストックブリッジの先住民寄宿学校にみずから宣教師として赴任し、息子のジョナサン(同名のジョナサン・ジュニア)は英語よりもホザトゥーニック語のほうが上手だったといわれるような生活をしていた。それは、二人の神学や思想の間に、単なる世代の違い以上の何か根本的な違いがあったことを示唆している。

エドワーズがそのストックブリッジの生活の中で書き続け、彼が存命中最後に見た出版物となった『原罪論』には、「白人であろうと黒人であろうと先住民であろうと、すべての人間が神の目からは等しく罪の深みに囚われた存在である」という、人類の深遠な共通性を見据える眼差しがある。いやさらに、その中には次のような文章もあるのである。「哀れな未開のアメリカ人(インディアンたち)は、邪悪さにかけては、キリスト教世界の大多数の人間に較べて、ほとんど赤子のようである。」――植民地経済の恩恵に一方的に与って富を蓄積し始めた同郷の上昇中産階級に向かって、エドワーズははっきりと、「彼らが軽蔑しているインディアンの方が神の目にはより悪が少ない」と断言しているのである。それは、どれほど「オープン・コミュニオン」を始めたストダードといえども、オープンになり得ない部分であった。ストダードにとっては、言い古されたジョークの通り、「よいインディアン」は「死んだインディアン」だけであり、神の愛されるキリスト教徒とは、白人入植者のことだけだったのである。ストダードとエドワーズは、やはりまったく違う水の魚である。